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正定寺(しょうじょうじ)は、茨城県古河市下大野にある浄土宗の寺院。山号を証誠山、院号を等持院という。中世には浄土宗鎮西流藤田派の檀林として、多くの学僧を擁した。近世には41世・当誉玄哲が古河城下に同名の正定寺を開山、両寺ともに古河城主・土井家の菩提寺として保護された。古河城下の正定寺と区別するために大野正定寺と呼ぶこともある。〔『総和町史 通史編 近世』 398-401頁(町内の寺院・下大野村・松本剣志郎 執筆)〕 〔『総和町史 通史編 原始・古代・中世』 531-532頁(大野正定寺・内山俊身 執筆)〕 ==歴史== ===創建=== 正和3年(1314年)、浄土宗鎮西流藤田派の学僧・持阿良心の開山〔享保年間(1716-1736年)編纂の『浄土伝灯総系譜』〕、あるいは応永年間(1394-1428年)、同じ藤田派・良岌見日の開山〔結城・弘経寺の『寿亀山本末開基史』〕 〔結城・弘経寺の『正定寺由緒書』〕と考えられている。史料により異なっており、研究者の見解も統一されていない。〔『そうわの寺院 I 』 115-121頁(正定寺と浄土宗関東三派・藤本顕通 執筆)〕 〔『そうわの寺院 I 』 124-130頁(中世における浄土宗談義所、下大野正定寺について・内山俊身 執筆)〕 正定寺がある「大野郷」は下総・下河辺荘の「野方」に属し、常陸川〔現在の利根川下流、茨城県と千葉県の県境部。中世の利根川は東京湾に接続し、現在の利根川下流は常陸川という異なる水系だった。〕流頭部の長井戸沼に近い。鎌倉街道中道も縦断しており、水陸交通の要衝でもあった。隣接する関戸・小堤・佐川野を含む鎌倉街道沿いの領域には、平安期・鎌倉期創建の由緒を持つ寺院が集中しており、中世の早い時期から開発が進んでいたと考えられている。〔 開基は不明。『本末帳写』(正定寺文書)には源姓「園田治部太夫政定」と記されているが、源姓園田氏は諸系図類に見いだせない〔。 なお寺の院号「等持院」は足利尊氏の院号と同じである。また江戸時代に末寺になる関戸・了覚寺が、初代鎌倉公方・足利基氏を大旦那としたという由緒を持つことから、足利氏との関係も推測される。〔『そうわの寺院 I 』 154-157頁(中世における浄土宗談義所、下大野正定寺について・内山俊身 執筆)〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「正定寺 (古河市下大野)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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